2010年7月31日土曜日

In the Studio with... Michael Angelo Batio

マイケル・アンジェロといえば、YouTube黎明期にそのバカ(テク)ギターで賞賛と爆笑を浴びまくった男。
そんな彼が、ギターコレクションを紹介しているぜ!



普通にストラトやムスタングも持っているのが、なんか違和感。。。
やっぱネックが左右に付いてないとw
ローランド・カークの影響ってのは、驚きとともに腑に落ちた。

しかし代表曲がないギタリストってのも、なんだかなぁw
まあアルチザン的といえば褒め言葉かもしれんが、音楽家としてはどうなんでしょ。

2010年7月29日木曜日

ZOOM G2 Nu が欲しい

宅録には手持ちのアンプシミュJohnsonのJStation(あえてPODは買わず)でも充分なんだけど、スタジオで使うにはちと辛いので、蹴飛ばして使えるヤツを物色していたところ。

iPhone + Amplitude + iRigもよさげだけど、バンドで使うにはちょっと心許無いし。





ペダル付きのG2.1Nuは本体もろともぶっこわしそうなので、G2Nuとペダルを購入検討中。



楽天でのG2Nuの最安値は現状¥10,500、成田の楽器屋で\10,800
送料込みで4桁になるまでもうちょっこしまってみるかなー


バンドメイトはマルチ嫌いなんだよな~ 相方はエフェクタマニアだし
まあオレは楽に動ければオッケーなんだよね^^ 重いのイヤ(笑)

2010年7月28日水曜日

此岸にて(4)

11日。日取りを決定し、段取りなども決定する。

葬儀社の担当者が、母の所属するコーラスの同僚の息子で、その同僚さんは父と同業だったので面識があったそうで、それもあってか懇切丁寧に事細かく説明してくれたので、不安は払拭された。

母に「あんた、ピアノ弾いてよ」と。
直接俺を褒めることは一度もなかったのだが、母には「よくあんなに指が動くな」とよく言っていたらしい。
なにを弾けばいいのか…迷ったが、
即興でアメイジング・グレイスを弾く。
父が弾いていて覚えたモーツァルトの331やベートーヴェンの月光を弾く。
父が我流でピアノを覚えた人なので、俺も習わないでやってきたんだ。
その他、ピアノの上にある楽譜をひっくりかえしては弾いてみた。

電話で坊さんに「父さんのエピソードをFAXしてくれるかい?」と頼まれる。

12日。
朝刊を見て驚いた。父と同業者の訃報だった。
母に聞くと、糖尿で闘病していたらしいとのことだったが、こんなタイミングでと驚くしか無かった。

納棺の儀式。といっても、棺に入れるわけではなく、身支度を整える儀式。
俺は納棺師にことわって、全部を見届けた。
湯灌の残りは、姉と一緒に庭に撒いた。来年は花が楽しみだな

文章をなんとかまとめて、お寺にFAX。

13日。仮通夜
坊さんが当方の文章を読んだ上での法話、涙が堪えられなくなる。

夜、HDRに録画されていたマイ・フェア・レディをつける。3時間程の映画だったことを忘れていたw

14日、納棺・出棺
棺が玄関から入ってきた。金糸が編みこまれた白い布にくるまれた棺は輝いて見えた。
すっかり硬くなった父を棺に収める。
棺が部屋から出なさそうだったので、サッシを一枚外す。

出棺。
父が外出するときはベランダからというのが習慣だった。だから、今日もベランダから出ていくんだからまた帰ってくるんだよな、と葬儀社の車に収まる棺を眺めながら思った。
そして葬儀場に向かわなければいけない。戸締りは全部していくから、と皆を送り、外したサッシを付け直して、全部鍵を確認、和室に戻ると父は当然もういない。急に嗚咽がこみ上げ、誰もいない家の中でひとり、座布団に顔を押し当て、大声で泣いた。張り詰めていた気持ちを吐き出すべく、泣いた。

葬儀場に到着すると、子どもたちが到着していた。同時に、親戚一同が集まっていてくれた。ひとしきり挨拶を終えて、喪主席に着席しようとしたころ、ネクタイを忘れたことに気がつく。近所にコンビニもないので、慌てて車を飛ばして帰宅、その間奇跡的に信号に一度も引っかからず、家では香典を届けに来た郵便局員にも会え、隣の家のおばさんには手伝いに来てくれてる旦那の数珠を届けるよう言付かり(苦笑)、なんやかんやでどうにか間に合った。

葬儀場入り口脇に、父が撮影した鳥の写真やピノキュラーなど愛用品がディスプレイされて、ちょっとお洒落なギャラリー的雰囲気に仕上げてくれている。

そして、通夜法要がはじまった。

此岸にて(4)

11日。日取りを決定し、段取りなども決定する。

葬儀社の担当者が、母の所属するコーラスの同僚の息子で、その同僚さんは父と同業だったので面識があったそうで、それもあってか懇切丁寧に事細かく説明してくれたので、不安は払拭された。

母に「あんた、ピアノ弾いてよ」と。
直接俺を褒めることは一度もなかったのだが、母には「よくあんなに指が動くな」とよく言っていたらしい。
なにを弾けばいいのか…迷ったが、
即興でアメイジング・グレイスを弾く。
父が弾いていて覚えたモーツァルトの331やベートーヴェンの月光を弾く。
父が我流でピアノを覚えた人なので、俺も習わないでやってきたんだ。
その他、ピアノの上にある楽譜をひっくりかえしては弾いてみた。

電話で坊さんに「父さんのエピソードをFAXしてくれるかい?」と頼まれる。

12日。
朝刊を見て驚いた。父と同業者の訃報だった。
母に聞くと、糖尿で闘病していたらしいとのことだったが、こんなタイミングでと驚くしか無かった。

納棺の儀式。といっても、棺に入れるわけではなく、身支度を整える儀式。
俺は納棺師にことわって、全部を見届けた。
湯灌の残りは、姉と一緒に庭に撒いた。来年は花が楽しみだな

文章をなんとかまとめて、お寺にFAX。

13日。仮通夜
坊さんが当方の文章を読んだ上での法話、涙が堪えられなくなる。

夜、HDRに録画されていたマイ・フェア・レディをつける。3時間程の映画だったことを忘れていたw

14日、納棺・出棺
棺が玄関から入ってきた。金糸が編みこまれた白い布にくるまれた棺は輝いて見えた。
すっかり硬くなった父を棺に収める。
棺が部屋から出なさそうだったので、サッシを一枚外す。

出棺。
父が外出するときはベランダからというのが習慣だった。だから、今日もベランダから出ていくんだからまた帰ってくるんだよな、と葬儀社の車に収まる棺を眺めながら思った。
そして葬儀場に向かわなければいけない。戸締りは全部していくから、と皆を送り、外したサッシを付け直して、全部鍵を確認、和室に戻ると父は当然もういない。急に嗚咽がこみ上げ、誰もいない家の中でひとり、座布団に顔を押し当て、大声で泣いた。張り詰めていた気持ちを吐き出すべく、泣いた。

葬儀場に到着すると、子どもたちが到着していた。同時に、親戚一同が集まっていてくれた。ひとしきり挨拶を終えて、喪主席に着席しようとしたころ、ネクタイを忘れたことに気がつく。近所にコンビニもないので、慌てて車を飛ばして帰宅、その間奇跡的に信号に一度も引っかからず、家では香典を届けに来た郵便局員にも会え、隣の家のおばさんには手伝いに来てくれてる旦那の数珠を届けるよう言付かり(苦笑)、なんやかんやでどうにか間に合った。

葬儀場入り口脇に、父が撮影した鳥の写真やピノキュラ-など愛用品がディスプレイされて、ちょっとお洒落なカンジに仕上げてくれている。

そして、通夜法要がはじまった。

此岸にて (3)

姉と父を病院から連れて帰る道中、今後について話したのだが、
「遺言は、机の2段目の引き出しの奥に、ビシーッと入れておくから」
ふとこの言葉を思い出し、姉に話した。「あるのかな…」

とにかくメモ魔というか、細かい字で何でも記録しておく人だった。
毎日の天気、旅行の行程時間、小遣い帳、気に留まった英単語、何でも細かく記す。
そんな人だから、先の言葉どおり用意してある筈と思い、

机の2番目の引き出しを覗くと、奥に入っていたのは、一本のカルパスだった。
落胆しつつも、机・箪笥の引き出しを審にかき回す。

子どもの頃二人で行った旅行の予定や日記が出てきたり、懐かしいものは色々あるが、
しかし目的のものは一切出てこない。

昨年帰省したとき、釘は刺しておいたんだ。健康診断は受けてくれ、と。
元から病気知らずで、知る限りでは歯医者とギックリ腰以外で医者に罹ったことがない。
勤めている頃は定期検診があったので、自己管理はせずとも良かったのだが、
退職してそろそろ20年、老化にともなって衰えも見受けられたのと、
時折母から聞かされる父の体調不良具合も心配だったので、
急に何かあってもコッチは早々動けないし、なにより体調管理のために医者に行けと。
まあ確かに、今さら自分がどれぐらい傷んでいるのかなんてワザワザ知りたくはない、って気持ちも判らんでもないのだけれども。

パソコンも立ち上げて、ファイルをつぶさに見てまわる。
「ドロドロからサラサラへ」なんていう日経ヘルスか何かが制作した血液関係のDOCも入っていた。
しかし遺言めいた結局見つからなかった。

2010年7月27日火曜日

祖父の趣味

古い写真の中に、祖父母が昭和二十年代に暮らしていた家の写真が数葉ある。
狭い土間に立派な鳥籠が幾つも並んでいる。
叔父にこの写真を見せ、こういうのにうちの父さんは影響受けたのかな?ときくと、
「いや、この時期アニキは仕事してたから、家にはいないよ。」と。
これらの籠を祖父は近所の建具屋に作らせて、カナリアなんかを飼っていたそうだ。
すると叔父は思いつめた表情で語りだした。

   この場所は台所でもあったので、おふくろがな、ここで七輪に火をかけて魚を焼いていたんだよ。
   勝手口をちょっとだけ開けて、換気しながら。
   俺は学校から帰ってきて、荷物を置いて、すぐに外へ遊びに行ったんだ。
   その時、まあ何も考えずに、バシーンって戸を閉めてな。
   暗くなってから家に帰ると、親父が肩を落として座っているんだ。
   全部死んだんだよ、ここにいた鳥たち。なんにも言わなかったな、親父。

そういえば、子どものころ夏休みに祖父母の家に泊まりに行くと、スズムシだったり、彼地では珍しいクツワムシだったり(五月蝿いと悪評で翌年にはいなくなっていた)、何かしら飼育をしていた。スズムシは大きな水槽を幾つも並べて繁殖させていたので、年々その数は物凄いことになっていた。
同居して数年間はスズムシを飼っていたのだが、ある年、鳴き声がパッタリと聞こえてこなかったので、おじいちゃんスズムシ聞こえないね?と尋ねると、共食したんだわ、とそれっきりだった。以降、何かを飼育することはなくなったようだった。